屋 根 裏 画 廊
     編集 : くれ はるお
RYOJI MORIYAMA

森山 良二・・・誠実に悩み苦しんだ青年期の魂の記録
 1960年代の終わりころから70年代後半にかけて描かれたこれ等の作品を奇怪、醜悪と断じて眼をそむけるか、或いはサイケデリックな色彩から当時を思い起こし、懐かしみながら見入ってしまうか、または未だに出会ったことのない作品として新たな興味を示すか・・・・・反応はそれぞれ異なるだろうが、実はこれらの作品が作者の個人的事情により作者自身のために描かれたものであり、他者に鑑賞されることを目的として描かれているのではないという特殊な事情に気付いたとき、作品をさらに鑑賞したいと願うものは厳かな気持ちで作品に向き合わなければならないと思うに至るであろう。

 ここに描かれている生き物はどれも醜怪で薄気味悪い様相を呈しているが作者にとっては架空のものではなく、実際に作者の心の奥底にへばりつき、その深部を支配していた得体のしれない情念或いは情動を、作者の筆により明瞭な形に具現したものである。

 但し、作者はこれらの作品を通して他者に語りかけ、自己の心の深淵に招きいれようという意図をもってはいない。この作者にとって作品とは芸術家としての魂が自分のために綴らせた個人的記録であり、それは作者を悩ませる心の暗部を表層部に曝け出し、苦悩の実体を自分だけの言葉で、自分なりに把握することを目的としているものである。これには高度の知恵と理性を要し、作品が他者に鑑賞されることを少しでも意識した時には、作者の目論みは一挙に崩れ去るという危険性を孕んでいる。つまり僅かでも他者の眼を気にした時、曝け出された彼の心の暗部は彼独自の言葉で彼自身に語られるものではなく、他者に対する言語が入り交じってしまうことにより、得られる答えは歪んでしまうのである。即ちその実体を自分なりに把握することは困難になる。

 この孤独な作品はその余りにも強烈な印象ゆえに、作者は外部に対して強引にメッセージを放出しているように見られがちだが、それは鑑賞する側の驚きの感情が自身に跳ね返ってくるために生じる錯覚である。他者に語り語りかけることを禁じている作者が外部に対してメッセージを送り出すはずはない。作者の眼は絶えずキャンバスの内側、即ち自分自身に向けられており、決して眼をそらす事はなく、絶え間ない自問自答の繰り返しの結果として彩色が施されるのである。自分ひとりの世界で自分に問いかけ答えを反芻するという作業の繰り返しには忍耐と高レベルの謙虚で誠実な姿勢が求められるが、作者の持ち前の謹厳実直な性格は、果てしない苦闘と自問自答の末に、この仕事を成功へと導いたのである。

 作品を通してこの作者の内面を覗き込みたいという願いは、他者には語ろうとしない作者の心の秘密を暴きたいという下賎な欲望に繋がるが、鑑賞する側は作者への尊敬の念と厳かな気持ちを携えることによって辛うじて鑑賞者としての面目を保つことができるであろう。同時に俗世の垢を振り払い、時代の風潮に染まってしまった思考回路を初期化し、でき得れば忘我の状態で作品に向きあえば、この全く個人的世界が人類誕生以来封印されている暗闇に通じる経路のひとつかもしれないということを実感するであろう。     

 作品が発する饒舌な主義主張や脅迫的自己アピールに慣れ親しんでしまった現代人にとって、自分から作品の側に向かうという行為は苦手かもしれないが、全身の感覚器官を研ぎ澄ましてこれらの作品と対峙した時、そこに聞こえてくるのは作者の自問自答する呪文のようなつぶやきであり、眼球を通して前頭葉の辺りに見えてくるものは極彩色に彩られた作者の感受性の世界であり、また振動となって素肌に伝わってくるものはうち震える作者の魂の鼓動であることにも気づくであろう。

 60年代の後半に20代をむかえた青年が描きはじめた魂の物語は約10年後、あっさりと終止符が打たれたが、思慮分別や品格を見失った言論の自由のもとに、表現は多様を極め、エログロナンセンスが市民権を得て、狂気さえも正当化された時代のうねりのなかにあって、一人の青年が自己の心の奥底を覗き込み、誠実に悩み、苦しみながらこれらの作品を記録として描きあげたという事実は極めて稀有な出来事である。(文:くれ はるお)