屋 根 裏 画 廊
            編集 : くれ はるお
MICHIKO SHIMAKI

島木美智子・・・作者の感受性が躍動する永遠の斬新性
 白色の平面上に華やかな黒色の彩色から成る彼女の作品はいつまで見ていても見飽きる事がないのはリズミカルな躍動感に満ち溢れた新鮮な感動が次から次へと押し寄せてくるからで、これを斬新という言葉で言い切ってしまうのは簡単だが、その言葉の中に彼女の作品の特性を全て押し込めてしまう事になりかねないのでこの言葉を封印するつもりでいた。しかし筆を執ってみると”斬新”という言葉は呪縛を帯びた言霊のようになって私の脳内を駆け巡リはじめた。

 ただ新しいだけではなく、いつの時代にあっても新しく見えるだろうという想定と場合によっては願望も込めて斬新という言葉を用いてきたが、島木美智子の作品を前にすると嘗て私が使っていた斬新という言葉が色あせて見えてくる。それは彼女の作品に対してこそ使われるべき言葉だと思えるからである。というのは彼女の作品はその成り立ちとして永遠の斬新性が保証されているからである。

 島木美智子の作品には主義、主張や信念といった通常作家が制作を継続するための核となるものは全く見られない。鑑賞する側は作家の核となるものの匂いを察知してそれから作品をゆっくり味わおうとするものだが、彼女の作品にはそうした匂いが全くないので初めて作品を眼にする者は艶やかなモノクロ作品に心を奪われるばかりで例えようのない戸惑いを”美しい作品”、”現代的な新しい作品”、”個性的作品”・・・という言葉で表現することが多いかもしれない。しかしこれは場当り的であってもあながち的外れな言い方ではなく、これこそが実は正しい評価の仕方であると私は思う。

 彼女の作品は全てが彼女の中から導かれたものであり、作品の中に散りばめられた様々なかたちは偶然性に頼って創られたものであってもその偶然性は彼女自身が意図して創り出したものであり、また選別したものである。判断の基準は彼女自身の感性であり何ものもこれを左右する力を持ってはいない。つまり彼女の作品世界は全て彼女の感性が君臨し支配する世界であり、彼女の意識は感性の目指す方向にのみ焦点を集中することを余儀なくされ、様々な形状が湧き出るように白色の平面上に浮かび上がる。感性の趣くままの流れの中で作者自身が酔いしれてしまいかねない状況を思い浮かべてしまうかも知れないが、作者はこの時極めて冷静に描こうとするイメージを捉えている筈である。そのイメージの原型とは感性の最深部でセンサーの役割を果たす感受性が捉えた世界であり、作者はそれを損傷すること無しにイメージとして保存し、作家としての手心をくわえはするものの平面上に黒色の様々な形として現す。但し、感受性が捉える世界とは、実は外部からの刺激に対して変容する感受性自体の姿かたちであり、それ故作者は自己の感受性そのものを白色の平面上に具現しているともいえる。

 絶えず変容する感受性の一瞬は直前のかたちを彷彿させ、直後のかたちを予見させる。つまり捉えられた感受性の一瞬の断面は変容する状況を包括しており、それは作品の中に動きとなって表れ、鑑賞する側はいつも新鮮な感動を得ることが可能となる。だがそれはいつ見ても斬新に眼に映る理由とはならない。斬新に見えるということはただ単に新しくに見えるということではなく、時代を先駆けていると感じられるものでなければ斬新という言葉は与えられない。だからいつ見ても斬新であり、未来永劫そのように見えるだろうと言うことは時空を超えているからだという大袈裟な表現に至って失笑を買い損ねないが、島木美智子の作品は人間の心の最も奥深い部分から生じているものだからこそそれは永遠に斬新なのだと表現すれば誰もが納得するであろう。

 彼女の作品を眼の前にして私はモーツァルトの曲を聴いているような気分になることがある。無上の歓びも言い知れぬ深い悲しみも軽やかな和声と旋律にのせて聴くものを心地良く酔わせるその手法が彼女の創作の手法と重なって見えてくるからだ。すなわち彼女の作品は現代的美しさに満ち溢れ、また軽やかで鑑賞するものは一服の清涼剤を得た時のように爽快な気分に浸れるが、その奥深さに気づいた時、人は自分の感受性を研ぎ澄まして作品と対峙し互いの感受性が呼応しあうよろこびを知るであろう。(文:くれ はるお)

作品2009-A 作品2009-B 作品2009-C
作品2009-D 作品2009-E
2008 作品5
2008 作品6
2008 作品7
   2008作品8
   2008作品9
第68回美術文化展
作品1
作品2
作品3