屋 根 裏 画 廊
   編集 : くれ はるお
SYUKEN KUROIWA

黒岩秀硯・・・ダイナミックな創造的展開
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 一見したところ絵物語のようだが連作ではない1枚の絵、これを静物画や人物画の様な一般的な絵画として受け取ろうとするとそれには無理がある。背後にある物語性を無視して鑑賞することができないからだ。そこで物語の一場面を丁寧に表現した一枚の絵と判断したくなるであろうが、そこには絵画とは何かを表現 するものと捉えているために生じる混乱がある。

 絵画にしても立体にしても鑑賞者がその作品について語る時表現という言葉がふんだんに使用され、そのことに違和感はないのだが、近年 芸術とは表現であると信じている人が多数に上ると見られ、例えばインスタレーションのようにほぼ表現だけから成るものを礼賛する風潮にある。だが表現という言葉の行きつく先の空しさに気付こうとする人は少ないようだ。

 絵によって物語を表わそうとする場合、或いは物語の補足として絵を描く場合、絵は表現手段であり、または説明書きの代役であると言っても良い。この場合表現という言葉が当てはめられて当然だが、黒岩作品がそれらの表現作品とは異なるという理由は表現という意識を持って彼は制作しているとは思えないからだ。そこには表現という言葉では表わしがたいこの作家独自の創造的展開が実践されている。

 黒岩秀硯の中にある物語は彼独自のものであったり、よく知られた昔話のように一般的共有性があるものであったり種々様々だろうが、この作家が抱いている生(なま)の物語の世界をだれも窺い知ることはできない。作家として彼が自分の中に抱く物語を1枚の平面上に展開するためには話の筋を辿るという行為は当然意味を成さず、柔軟でありながら時には強引な措置が求められ、それには創造者としての思い切った飛躍が必要である。

 理にかなった言い方や克明な記述だけでは言いたいことが理解されないと判断した時、作家は特有の手段を講じて話の展開を強制的に推し進めようとする。こんな時よく用いられる手段のひとつはダイナミズムに貫かれた飛躍である。実は絵画制作時の黒岩秀硯は常時これを実践しているのである。

 黒岩秀硯の飛躍の結果は機知に富んだダイナミックな構成となって現れ、更に緻密な色遣いは工芸品的風合いを醸しだし、一幕一場の中に全てが凝集された舞台のようにも見える。多くの場合非現実的事物が全体の構成を支配しているがこの非現実的事物には不合理が感じられず、時にはこれらの非現実的事物が支配する世界は確かな実在感を伴って現実性を凌駕し見る者に迫る。その時この確かな実在感を保有する世界はそれを見るもの、すなわち鑑賞するものと対等に対峙するのだ。これを平面上に表現された世界という単純な言い方は妥当ではない。これは作家の意識が縦横に反映された創造世界である。

 単純に表現されたものであればそこに見られる解釈は予め作者の用意していた解釈だけであるが、黒岩秀硯の作品には幾重もの解釈が可能であり、鑑賞という厳しい行為に対して充分な耐力を持っている。だから長時間眺めていても見飽きることがなく、心から豊かな気持ちになる。

 唯一絶対の神による天地創造以後、創造行為は芸術家の手に委ねられた特権であるはずだが説明のような表現行為ばかりに終始している自称芸術家とその作品の余りの多さに辟易している今日、黒岩秀硯の作品の前に佇むとほっとして救われた気分になるのは私だけではないだろう。 (文:くれ はるお)

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