屋 根 裏 画 廊
   編集 : くれ はるお
YASUHISA UEDA

上田 裕久・・・・ 作品の中に隠された極上の耽美の世界
Wptch on YouTube
YouTubeマークをクリックするとYouTubeの大画面を表示します。

 2面の絵画が重なって、手前の絵画の隙間や切り裂かれた部分から見える向こう側の絵の範囲は限定的で肝心の妖しい秘め事を明瞭に確認することはできない。葉っぱの曲線が形作る開口部は眼球を想わせ、これが向こう側を覗きたいという欲求をさらに助長するが、不思議なもどかしさが逆に不可解な快感を呼び覚ます。

 背後にある全てを明瞭に把握したいと願う気持ちの強さに応じた眼光が鑑賞者である自分に対して向けられるのだ。その時自分が覗かれているという戸惑いの感覚を抱きはするものの自分に対して向けられた眼光は自分の中にある耽美な世界を開放したいという気持ちに繋がる。

 覗いているようで実は覗かれているというのは、作者の中にある妖しい世界を覗こうとする時に 覗きたい気持ちを曝け出さないと覗くという行為は成立しないということだが、この作品の作者は鑑賞者のそうした心理をもてあそんで楽しんでいると考えるのは余りに短絡的過ぎる。

 伝統的様式を重んじた図柄のひとつひとつの形状は小さな葉っぱ一枚に至るまで周到に計算されて作り上げられたものであり、またこれらは原色に彩られることはなく、全ての色彩に作家の意図が滲み込んでいて深い味わいが醸し出されている。つまり作品の隅々まで作者の創意が完璧に透徹しており、これを精緻なアンサンブルを奏でるオーケストラに例えられても違和感はない。また完璧な全体構成と細部への配慮は時に精彩を欠く一因ともなりかねないが、そういう意味でのもの足りなさは見当たらない。要するに上田裕久の作品は絵画としての完成度は極めて高い。

 作者はこの完璧な絵画2面を惜しげもなく1枚の平面に落とし込み、前面と後面という構成でそれぞれを描き分ける。それにより鑑賞する側に妖しい耽美的世界を彷彿させる訳だが、このトリックめいた所作により2面の絵画は決して反目することなく、それぞれが独自性を高めると同時に協調しあって秘密のストーリーが納められべき場所が確保される。そのストーリーとは鑑賞する側の想像に委ねられるものであり、想像の結果としての物語や事物或いは画像がその特別に確保された場所に収納されて始めて作品は完成する。つまり鑑賞する側によって想像されたものが絵画の中の隠れた一部となることにより作品は鑑賞対象となる。

 実は作者は伝統美の中に繰り拡げられる生々しい人間ドラマを描きたいのだ。それは男女の愛憎劇であったり、交合の場面であったり・・・。それは恐らく1枚の平面に思う存分描ききる事は不可能であるし描ききったとしても作者としての達成感は希薄に終わる。生々しさや過激な写実的描写は伝統美にふさわしくない。また描ききってしまうことで失われてしまうものもある。例えば空白が醸しだす余韻、伝統的情緒・・・等。更に描けば描くほど作品の世界は限定的になり小規模化、さらには矮小化することすらある。

 そこで作者の編み出した手法は逆転の発想をも凌ぐ思考の中から生まれた。すなわち最も格調高く、また完成度の高い作品として仕上るための賢明な方法とはドラマの中の生々しい部分を鑑賞する側の想像に委ねることである。

 上田裕久の編み出した仕掛けを持つ世界は極めて異質だが現代人は抵抗なく受け入れることができるだろうし、またその中で思考と想像を巡らせ極上の耽美の世界を満喫することは現代人にとってこの上ない歓びとなるであろう。但し、そのためには相応の知性と能力を有することが必須となるが、もともと芸術鑑賞とは条件付けされた中での楽しみである場合が多い。例えばルネッサンス絵画を楽しもうとするにはルネサンスの時代についての知識と洞察力がある程度必要だ。芸術とはそういう種類のものだということを作者は暗に示唆しているようにも思える。(文:くれ はるお)

   2009年度 12会 作品
捧ぐ手
受ける手
抗う手
無言

仮嘘
虚仮
2人の女神
『認識と必然性の寓話(3)』
認識と必然性の寓話(1)
認識と必然性の寓話(3)
認識と必然性の寓話(4) 嘆きのピエロ
『ヘクラ民族の憂鬱』
ヘクラ民族の憂鬱
水辺の想い
2003年11月の月
2003年11月の月
ヘクラ民族
ヘクラ民族
ヘクラ民族
ヘクラ民族の憂鬱