屋 根 裏 画 廊 TomHero Art Gallery
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編集 : くれ はるおqq
SURREALISME

 1. 岡田 徹の作品

 ここに展示されている作品は、作家個人の意識とも無意識とも判然としない内面世界の深層部分から抽出された形と色彩によって創られたものである。シュルレアリスムの考え方がこの作家をその内面の深層部へと導いているわけだが、この世界は神話創世記のような混沌の世界である。ここでは実社会の尺度や主義主張は何の意味も成さない。シュルレアリスムという思想そのものさえ空虚に感じられるかもしれない世界である。

 ひとたび、この世界を覗き込んでしまった時、作家はまず傍観することから始めるだろう。その後詳しく観察し、或る時は思考し、或る時は瞑想するかもしれない、時には永遠に続く意識と無意識の交錯する狭間に踏み迷うことになるかもしれない。

 だが、作家は作品という形で芸術家としての意志を具現する。その作品は当然のことながら単なる具象とか抽象という言葉で単純に区分けしても何の意味もないものであり、またその作家の社会的主義主張とも無縁のものである。端的に言ってしまえばそれは個としての作家の深層にある意識の反映であって、それは顕在意識・潜在意識の区分を超えて語られる作家の生々しい告白でもある。但し、ここにある意識の反映としての作品は偉大な個の世界であり、崇高な魂と普遍的な叡智を秘めた純粋な心の世界である。

 日本におけるシュールレアリスムは未成熟に終わったとする論評を眼にすることがある。それはダダからシュールレアリスムに至る美術史上の経緯を踏まえておらず、そこには確固たる思想が見出せないという理由によるとのことであるが、しかし人間の心の深遠を覗き見るのに歴史的に裏打ちされた思想で武装する必要性があると考える芸術家は果たしてどれほどいるだろうか。

 フロイトによって人間の意識下の世界が究明されようとした時、一群の芸術家の眼にはその世界がとてつもない豊饒の世界として映った。彼らは自らをシュールレアリストと命名し、ダリは無意識世界のエロスのエネルギーを爆発させ壮大なドラマを構築し、タンギーは自分の中の抑圧された魑魅魍魎を解放し、エルンストは幻覚に端を発する神秘の世界を現出した。芸術活動の実践における彼らの姿勢は思想の確立や追従であった局面が無いこともないが、人の心の深層に潜む広大な精神世界を主題にするということであって、それぞれの手法は全く個別の作業であった筈である。ところが、そのような指向性を共有する同志の集まりを声高に宣言しサロン化しようとしたのがアンドレ・ブルトンであり、その宣言が余りにも衝撃的であったため、その後シュールレアリスムという言葉が独り歩きした感がある。しかしシュールレアリスムの誕生は限定的で特異な偶発的のものではなく、実は美術史上の必然であり、具象の時代から近代絵画の時代に移った芸術活動が、さらに人間の深層世界そのものに光を当てようとする動きである。そこに必要とされるのは自身の内面を凝視する集中力と見たもの感じたものを構築する構成力であり、それは個の資質によるところが大きい。

 西欧美術史の枠組みの中に日本における一連の動きを封じ込めて語るのは容易であるが、日本人にいきなりタキシードを着せて、西洋人ほど似合わないと言ったところで何も語ったことにはならない。ダダを消化していない日本人はシュールレアリスムを成熟させられなかったと語るのは西欧美術史の枠組みを絶対視する知識至上主義者の偏見であり、西欧の発展過程を最良と認識するところから生じる極めて隷属的思考であるといわざるを得ない。

 日本では本格的なシュールレアリスム運動の実践をめざして、1939年に美術文化協会が華々しく設立された。この時の創立メンバーは福沢一郎をはじめとする41名の蒼々たる前衛作家である。当初メンバーの誰もが人間の心の中の豊饒の世界に限りない芸術的可能性を見出せることを信じ、自らが日本における新しい芸術運動の旗手にならんと欲していたであろうが、いつしかシュールレアリスムの考え方が広く普及し、シュールレアリスムはもはや美術文化協会だけが占有する芸術運動ではなくなった。こうした時代の風潮と互いに相容れないメンバー同士の個性の衝突は組織の存続を危うくしたが、美術文化協会が幾度かの危機を乗り越え、今日に至っているのは個々の人間の内面世界こそ芸術活動の源泉であるという思想を徹底したことによるものである。組織の創立当時から活動に参加していた岡田徹は1975年から2002年まで代表を務め、2007年その功績を惜しまれつつ他界した。

 岡田徹の作品からは今でも決して色あせることのない斬新な生命力が発散されている。それは作品を凝視するほどに強まる。人は死によってその生涯を完結するが、作家はその死によって作品に確固たるフォルムを与え永遠の実在とする。それにより我々はいつの時代にあっても使い古された錬金術の坩堝の底に純金を見出すような歓びに浸ることができるのである。

  シュールレアリスムは精神分析学を契機として生じた芸術運動であるとして、そのはじまりを一言で論じるのは適切ではない。シュールレアリスムは決して精神分析学によって、偶発的に生じた芸術運動ではないからである。宗教の呪縛から解き放たれた芸術家の指向性が印象派や表現主義を経てやがて人の心の内奥そのものに至るのは時間の問題であり、時が熟するに及んで精神分析学という学問に触発された芸術家はそれまで美術の世界では顧みられることがなかった心の奥底の真相を美醜の区別なくさらけ出したいとする熱い欲求に駆られたのである。この欲求により一連のシュールレアリスム運動が展開された訳だが、その欲求は時には無意識を注視するあまり醜怪な化け物を生み、或いは卑猥な表現が目立つこともあり、”シュール”とは奇怪、醜怪なものであり、エロティックな心情を煽るものというイメージを世間に広める結果に至ったのは事実である。しかしながらこのような過激なイメージが世間に先行する状況下にありながらも、心ある創造者たちは、シュールレアリスム運動を人間の内面 に拡がる意識・無意識を超えた精神世界を創造行為の中心に据えようとする運動として定着させたのである。こうしてシュールレアリスムは時の移ろいとともに一般化し,もはや取り立てて宣伝する必要もない程に世の中に浸透したのである。

 シュールレアリスムの一般化と共にその単なる宣伝にしか過ぎない作品作りに終始し潰える作家が少なくない実情とは真逆に、岡田徹の作品はひと際光彩を放ち続けている。そこにはあくまでシュールレアリストであろうとする岡田の並々ならぬ意思が感じられるが、それは岡田徹のシュールレアリスムに対する宗教的ともいえる深い忠誠心に根差しているからかもしれない。一人の作家の強烈な個性を主義主張の中に単純に埋没させて論じたくはないが、岡田徹はシュールレアリストとしての洗礼を受けて強烈な個性を発揮した一人の作家であり、シュールレアリスムを語ることなくして岡田徹の作品を語ることは許されないだろう。但し、この逆を否定することはできない。即ち、岡田徹の強烈な個性はシュールレアリスムという枠の中で個性の均衡が保たれ、それが作品という形に具現されたとも言えるのである。

 シュルレアリスム運動の初頭からこれに参加していた岡田徹は先駆者のひとりとして、シュールレアリスムとは如何にあるべきかという問いを常に発していなければならなかった。芸術家として発したその問いの答えは理論家が理論武装を目的として得る答えとは全く異なるものであり、芸術家としてその解答欄はあくまで作品そのものでなければならない。そしてシュールレアリストにとって求める答えの在りかは己の心の内奥に限られ、それ故ひとたび発した問いに対する答えを得るためには心の奥底で壮絶な闘争が繰り広げられることが度々であったろうことが想像できるのである。 岡田徹の作品からは、解を得るために数々の苦闘を経て崇高な精神世界を現出するに至った過程がありありと語られているように感じるのは筆者だけであろうか。作品、即ち作者の得た答えを凝視しているとその中の生き物や情景が蠢き出しても不思議ではないような錯覚に陥るのである。

    

尻尾を出した機械
星の夜
受胎告知
靴・有刺鉄線・標的
地異霊(カチンの森)
春夏秋冬図(冬)
春夏秋冬図(秋)
春夏秋冬図(夏)
春夏秋冬図(春)
戦禍の嘘10の内4(砲撃)
天使の嘘(カラス・緑の煙突)
虚像(A)

 自分の心の内奥を見ようとすることは孤独の極みに身を置くことである。しかし、シュールレアリストとして心の中に現れる情景を把握しようとすれば、それはいつでもシュールレアリスムのフィルターを通すことになり、形骸化されたものの見方を自らに強制することになる訳で、決して孤独な作業とは言えない。作家の個性はシュールレアリスムの中に埋没するだけであり、そこから得られた情景から作られる作品はシュールレアリスムの宣伝広告以上のものではあり得ない。

 創造者はもはやシュールレアリストであることから踏み出さなければならない。即ち無の境地で己の内面を凝視することから制作活動を開始しなければならないのである。それは自分の魂を覗き見る行為であって、絶対的孤独な環境下で、すべての先入観をかなぐり捨て、五感に響くものだけをひたすら取得しようとする作業である。

 出来上がった作品は彼の心の中の物語であり、それらは岡田徹という一人の偉大な作家の感性が自らの魂の中に見たもの、聞こえたもの、肌に感じたものを率直に描いたものであり、謂わば作者の心の中の現実である。作者がそのことを証明するためには、それらの事物を見て、聞いて感じ取っている作者自身の姿が必要であり、実はその姿が描かれることによってこそ作品は完成するのである。但し、当然のことながら、岡田徹は単純に自身の姿を作品の中に描き込むようなことはしない。岡田徹の姿はキャンバス上の事物と同化して作品のあらゆる部分に散りばめられているのである。キャンバス上の人も生き物も、背景もすべて岡田徹個人の心の内奥から抽出された形と色から成る。だからそこにあるものは彼の魂の片鱗でもあるのだ。

 優れた芸術作品は必ず作者の強烈なメッセージを放出しているものだが、多くの場合そのメッセージとは作者の主義主張であったり、芸術感であったり、並々ならぬ熱意であったりするもので、明確なメッセージとして鑑賞する側に伝達されることが作品の評価を更に高めることになる。しかしながら岡田徹の作品に限っては明確なメッセージが発せられることはない。キャンバスの表面から彼の鋭い視線と呪文のようなつぶやきが滲み出してくるだけである。しかし、岡田作品を見続けていると、このことがより強いメッセージとして伝わってくるのは不思議である。

 ダリやタンギー、さらにはエルンストの作品に現われる生き物その他の事物はシュール作品としての承認を得るためには十分な空想上の事物である。作品は外へと向かう彼らの主張の代弁者としての役割も担っていることは否定できない。これによって作品の真価が問われるべきでないが、同じシュールレアリストとしての岡田徹の作品との大きな違いはこの点にある。岡田徹は心の中に現れる事物に徹底してこだわり、それを写実主義的手法により描き現わしたシュールレアリストなのである。だから岡田作品には他のシュールレアリストの作家と比べ実質的で重厚感に溢れているのであり、その存在感は他の追随を許さない。このことを作者は内心自負していたかもしれないが、ここにある岡田徹個人の心の内奥から抽出された形と色からなる作品はシュールレアリスムと切り離しても充分に鑑賞に耐える作品である。

 今日芸術の形態は多様を極めており、いわゆる何でもありの世の中になってはいるものの、100年近く前に提唱されたシュールレアリスム運動以来、何を描くかという芸術活動の最も基本的な姿勢に関する大きな芸術運動は起こってはいない。(例えばキュビスムは確かに衝撃的な芸術運動ではあったろうが、それは主に表現上の芸術運動であり、またポップアートは描こうとする対象についてそれぞれ主張はあるだろうが、表面的思考或いは感覚への刺激を本意とし、それは広い意味で表現上の快楽を貪ることを目的としていると思えることもある)このことはシュールレアリスム運動は美術史上興るべくして興った芸術運動であり、結果として美術界全体を包括し,浸透した運動であったことを意味し、今後どのような芸術運動が勃発するか予測できないが、人間の心の奥底を大きく揺さぶる芸術運動が興るとしたら、その運動は人の心の内奥を曝け出し、心の奧深く隠れている真実を導き出そうとするシュールレアリスム運動と無縁ではあり得ないと考えられる。岡田徹の残した作品群には時代を経ても、その時々の解釈に怯むことのない永続性があり、このことを如実に実証するものとして、美術史上に輝き続けるであろう。( 文 : くれ はるお )

笑う鴉
白日夢
不死鳥
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