屋 根 裏 画 廊 特 別 作 品
   編集:くれ はるお
TERUKAZU ASANO
  浅 野 輝 一 〜時の流れに重なる人間の意識〜
作家の公式ホームページをご覧下さい。
          『’010私をとりまく情景』
    
          『’09私の祈り』
’09私の祈り
          『’09朝の風景』
'10 私をとりまく情景
 左右に拡がる大きな空間の下に描かれた人物は一見して表情に乏しくみえるが、じっと見ているとそれぞれの個性が表面に浮かび上がってくる。これら登場人物の無造作な羅列は人間同士の距離感を思わせるが、社会的立場や身分はここでは重要ではなく言わば『素』の人々という印象が強く、それ故 凝視するほどに人間としての存在感が際立つ。
’09朝の風景
 展示会場を後にしてから脳裡に作品を想い起こそうとして眼を閉じると、前頭葉のあたりでモノクロのトーンの人物郡が蠢いているような気配を感じ、思わず眼を開けてしまう。人物は特に克明に描かれている訳ではないのに異常なほどリアルだ。
 ここにいる男たちをその人相以外に識別できる要素はメガネをかけているか、マスクをしているかというだけで、他には見当たらない。例えば中央のメガネをかけた男はメガネをかけてマスクをしていない男という言い方で識別するしかなく、特にこの男を登場人物の羅列に加える理由もなかったかもしれないという余計な憶測を抱きそうだが、実は作者はこの男について言えばその実在にしか興味がないのだ。このことは他の登場人物についても言える。
 作者にとってこの男を描くということは、男の生きている現実を描くことである。それはこの男の生き様の詳細を描くことではなく、外見の精密画を描くことでもない、勿論生活環境を描くことでもない。外観上識別し得る最小限の特徴と共に、生命活動の実態として彼の意識そのものを描きたいのである。間断なく継続する意識は生命の継続の証しというだけではなく、人間としての生命活動を牽引する役も担っているからだ。
 現在という時の流れの最先端で時間は絶えず次の瞬間を創り続ける。それと同じように人間の意識は次の瞬間の意識を創造し続ける。フランスの或る哲学者が『時間とは意識のことである』といったが少なくとも時間と意識の進行は等しく、人間の意識は時間の流れに重ねあわせることができる。
 作者が『時間とは意識のことである』と考えたかどうかは別として、登場人物の意識を時間の流れに重ね合わせて考えていることは確かだろう。即ち時間に相当するものを平面上に何らかの方法で表すことが出来れば、人間の意識はその軌跡を同じ速度で進行することになる訳である。
 但し、当然のことだが、時間に相当するものなど何処にもない。平面上に時間軸を描いても時間の尺度を描いたというだけのことで時間そのものを描いたことにはならない。
 しかし作者はこんなことを論理的に考えてはいない。作者の芸術家としての直感は論理を尻目に一挙に目的を達成する。手段は達成される目標に追従して現れる。すぐれた芸術家は乗り越えることが不可能と思われる大きな障害を平然と飛び越え、それに驚く人々をまもなく納得させてしまう。
 結果として、キャンバス上の全ての事物は時間の中を漂う彩色された点と線から創り上げられたのである。作家が実現した手法とは瞬間の各状況を時間軸方向に集積すると言うものである。即ち時間軸を基軸とする積分作業である。それ故キャンバス上の点や線はもはやその位置を縦軸、横軸で表わすことは出来ないものであり、それらは時間の中を漂う点や線となった。作者はそれ等を素材として事物を形作らなければならない。
 人物郡を囲うように掠める線も人物の輪郭もその陰影も時間の中の点と線で構成されている。凝視する眼力を弱めてしまうと途端にちり散りに分解してしまいそうになる。それを留め置くには凝視することを継続する力が必要だが、そうするうちにひとり一人の輪郭がより鮮明になり、やがて僅かな息遣いと共に彼らの意識が何ごとかを語り始める。
 我々が作品の前に立つ時、それはいつでも現在という時間の最先端にある。『素』の自分を取り戻し、やがてここに描かれた人々の意識と自分の意識が共鳴した時、日常を生きるひとりの人間としての尊厳を思い知るに至るであろう。それは悠久の時の流れの中を漂う確固としたひとつの存在であり、このことを自覚した時浅野作品が永遠に古びることのない宿命を併せ持っていることにも気づくだろう。(文:くれ はるお)
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